
開拓民と歩んだ「嶽きみ」栽培の先駆け鈴木さん一家に聞いた「嶽きみ誕生秘話」
酪農農家とかみ合い増産し、今や“主役”に昨年の町農協販売額9300万円の全国的ブランドに成長
岩木町嶽地区特産の「嶽(だけ)きみ」は今や、全国レベルのブランドにまで成長したが、かつては戦後の開拓の入植者たちが、酪農経営の傍ら、試行錯誤しながら始めた作物だった。「嶽きみ」のルーツとなるとうもろこしを初めて栽培した、同町常盤野上黒沢の鈴木春雄さん(90)、マサさん(83)一家にその歩みを聞いた。
1972年発行の「岩木町誌」によると、岳地区にある「端穂ホ開拓地」には、戦後の四九年、鈴木さんを含め樺太からの引き揚げ者ら一三戸が入植。その後、経営、資金難で離農する人も少なくなかった。
■皆無一文で入植
戦後の混乱から逃れ、「皆無一文できた」という鈴木さん。入植直後は大豆や麦など、国の施策に沿ってさまざまな作物を試したが、火山浄土は酸性度が強く、「何を付けていいかわからなかった」ということだった。
そんな中で、初めてとうもろこしを栽培したのは1961年だった。きっかけは、種苗業者から「うまくできたら、弘前市内の小中学校に納入できるように契約してやる」といわれ、「クロスバンタム」という品種を栽培したのが始まりだった。このときは、収穫時期を過ごし、「ニワトリのえさになった」が、これが嶽きみの小さな第一歩だった。最初のころは、約十メートルを作付けし、一本四円で売れたそうです。
■食味おちる危機も突破
その後、1963年に始まった酪農と、とうもろこし栽培との歯車がかみ合った。牛ふんからできたたい肥が、とうもろこしに豊かな甘味を与える。収穫後の葉や幹なども牛の飼料にできる上、病害虫の防除の手間もあまりかからない。このため、牛の冬の飼料用も含め、とうもろこしを栽培する農家が増えていった。増産に伴い、問題も浮上した。風媒花のため花粉が混じって、堅く、食味が落ちてしまったり、マサさんは作っても売れず「畑に積んでおいて好きなだけもって行け、といったこともあった。」それでも現金収入がうれしかったそうだ。
1990年ごろから同町農協が取り扱いを始め、前後して「嶽きみ」の名前も定番。昨年一年間の同農協の嶽きみの販売額は九千三百万円だった。これまでを振り返って「よくやったと思う」と春雄さん。同時に「このままでいいのか、常に先を考えなければならない」と警鐘も鳴らす。現在、鈴木さんの畑の栽培は、次男の健さん(55)夫妻に引き継がれ、現在も毎年出荷数を増やしている。
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